科学者と神
最先端にいる科学者こそ宗教的なものに惹かれるのではないかと思う。たとえばビッグバンのような現象を考えた時に、原初の宇宙でクォークやニュートリノなどの素粒子が混ざりあっているところに、それらが結合していって宇宙が始まった、ということは彼らにわかっている。しかしどうしてそういった結合が始まったのか、どうやってそういった状態が用意されたのか、ということはわかっていない。宇宙が始まる以前のことなのだから、時間すらそこには存在していないという状態だ。時間の流れの中にいる僕らがそれをわかるというのも無理なのかもしれない。科学者は、最先端にいればいるほど、常に自分の知らない、あるいは知りえないものと接している。もともと何も知らない素人の僕らならば、適当になんかの科学書を読んだり、専門家に聞けば分かるだろうぐらいの気持ちがあるからそんなに不安になることはない。テレビのしくみを知らなくても、それを知っている人がどこかにいることは知っているから、箱のようなものに知らない人や知らない場所が映ったりしても別に怖がることはない。
科学者は常に「誰も知らない」場所に面と向かっている。ついにその正体がわかったとき、彼は神と接触したことになる。今まで誰も知りえなかったものを自分は知りえたのだ。未知の神と触れるような、一種の神秘体験だ。しかしその恍惚の瞬間もつかの間でさらにその未知の神の先にもっと根源的な神がいることを認識し、科学者は畏れる。世界は再び新たな謎を提起し、科学者は愕然とする。シエナの大聖堂を笑い、「世界の深奥」と遭遇したバタイユが次の瞬間には黙り込んでしまうように。
考えてみれば古代の人々が稲妻のおこるしくみがわからなかったために雷神を想像したのと何も変わるところはない。人間は知性を発達させてしまったが故に、常に未知のものを想定しなければならないという、根源的な不安を抱えているのである。