ある夢
前に友人たちと一晩おしゃべりをしながら酒をのんでいたことがあった。その時話題になったのが、夢についてのことだった。その中の一人の友人の夢の話におもしろいものがあった。それを脚色を交えながらここに復元した。
僕は夢を見た。中学生のころから何度も見た夢だった。僕は塔のような建物の前に立っていた。その建物の周りには金網が張り巡らされている。僕は金網をよじ登ってこえた。そして建物に近づく。建物の入り口の横にはボタンがあり、それを押すと塔のエレベーターが降りてくる。
入り口のドアが開くとそこに一人の男がいる。顔はない。僕が見ていないだけなのかもしれないが、とにかく顔はわからない。もちろん僕にはその男が誰なのかもわからない。僕がエレベーターに乗ると、男はドアを閉める。そうするとエレベーターは上昇を始める。どこに行くのかはわからない。映画館であったり、パーティールームであったり、それは毎回違う。
エレベーターが上昇をやめ、ドアが開く。そこは暗闇だった。男が僕におりるよう促した。不安ではあったが、そこでは男に特別な強制力があった。僕は足を上げ暗闇へ踏み入れた。足は闇に溶け出された。背中を押され、全身が暗闇に放り出された。僕は体の感覚を失い、闇の一部となり、闇そのものとなった。突発的に僕の内部でノイズが駆け巡った。しかし壁も何も持たない僕の内部では、音は反響もせず、増幅されるでもなく、減退されるでもなく、ただ無尽に走り回るだけだった。
ちょっと俺が脚色したところが多いかもしれないが、ようするにその友達はこのような夢を何度も見たらしい。しかし残念ながら俺にこの夢を分析する能力はない。ただこの夢がとてもおもしろいとしか言えない。
彼自身の考えは無視させてもらうが、それは文学的なおもしろさだ。文学の思想的可能性は、文学が直接的に思想を表明するものではなく、なんらかの隠喩に思想をこめることができるところにあるのではないかと思う。たとえば、大江健三郎がイェーツの詩から取り出した「燃え上がる緑の木」という隠喩。これは一本の木の片側の半分が燃え上がっているのに対し、もう片側はみずみずしく緑の葉がしげっているとういうイメージである。この隠喩が何を意味するのか考えるのは自由だ。これは激しく燃え上がる魂の情熱と、力の充溢した肉体の同居を意味するんだ、といえばそうかもしれない。あるいは苛烈さと豊穣さの同居を意味しているとするならそうかもしれない。だが、そう言えるのならそういったほうがはやいのではないか。いちいち隠喩で表現することにたいした意味はないのじゃないか。
意味の多様性を一つの隠喩にこめて、その言葉の力を高めるんだ、と俺が言いたいんじゃないかと思う人もいるかもしれない。それもあるかもしれないが、それ以上に、ある隠喩が、「何を意味するのか」ということを考えることじたいが、隠喩の持つ力を弱めてしまうんじゃないか、ということを言いたい。つまり「燃え上がる緑の木」という隠喩を、「激しく燃え上がる魂の情熱と、力の充溢した肉体の同居」というふうに、直接的な表現に還元するのではなく、そのまま、この木のイメージをかみしめること、イメージそのものを一つの思想としてとらえることが重要なんじゃないかってことだ。
そこでこの夢だけど、この夢はそのまま思想となりうる深みを持ったものじゃないかと思うわけだ。見知らぬ塔の前に立ち、エレベーターのボタンを押す。顔をもたない見知らぬ男が自分をどこかへ連れて行く。行き場所はいつも違う。
隠喩としての思想は、体験によって立ち上がってくる。たとえば燃え上がるような恋をしたときに、その感情とともに自分の生命力がみなぎるとき、「燃え上がる緑の木」が浮かび上がってくる。それは意味の多様性以上の多様性を持つことになる。
この夢を想起させる体験はかなり広汎にあるのではないかと思われてならない。見知らぬ塔で見知らぬ何者かに「どこか、いつも違う」場所に俺たちは連れて行かれる。「塔」という垂直の、閉塞した空間でありながらも……