吸血鬼考
ここで俺が考察の対象にしようとしているドラキュラとは、民話上の吸血鬼やドラキュラのモデルのヴラド・ツェペシュではない。ともすれば学術の対象にもされかねない、民俗学上、歴史学上のドラキュラではなく、小説や映画によってきわめて俗化され、しかも俺個人のもつドラキュラののイメージをもとに考察をしたい。
俺のイメージの一つのモデルとしては、ドラキュラの元祖、ブラム・ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」の、ルーシー・ウェステンラという女性の吸血鬼だ。彼女はもともとふつうの人間だった。しかしトランシルヴァニアからはるばるロンドンにやってきた、ドラキュラ伯爵に血を奪われていき、ついには死んでしまう。そしてその死後に、彼女は吸血鬼として蘇り、子供たちの血を吸う。ヴァン・ヘルシングは言う。「彼女は『不死者』になったのかもしれん」
基本的に吸血鬼は一度死んだものだ。だからもう二度と死ぬことはない。だから「不死者」ともいえる。そのはずなのだが、その吸血鬼も退治されてしまう。二度殺されてしまう。ルーシーは口ににんにくをつめこまれ、心臓に杭を打たれ、吸血鬼としての死も与えられる。
ルーシーは成仏したようだが、俺の吸血鬼は悲しいことに成仏しない。吸血鬼は「不死者」なのだ。もともと死ぬはずはない。それが死ぬということは、つまり存在そのものの消去に他ならない。
存在そのものが消えるとはどういうことだろう。それは吸血鬼の過去から未来にいたるまでの全ての消去だ。とうぜんその吸血鬼に関する人々の記憶も完全になくなる。これからも存在しないし、過去にも存在しなかったものとなる。吸血鬼は存在の極限を示す。
死すらも奪われることではじめて吸血鬼は死ぬ。だから吸血鬼は生きているものよりもより強力な存在を持ち続ける。ただの生き死によりももっと重要な存在の生死がかかっている。そのためには他人の命などためらいなく奪う。命よりももっと重要な問題が吸血鬼にはある。
吸血鬼は自分の命を持っていない。だから他人の命の源の血液を奪うことで肉体を地上にとどめる。自分の存在を他人の存在で補おうとする。
吸血鬼は常に存在の危機に脅かされている。そのために戦う。