安部公房「壁」、あるいはマルセル・デュシャン「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」
安部公房自身は「S・カルマ氏の犯罪」に関して、「ナンセンスなものへの肉迫を試みた」と言っている。「空腹のせいかもしれないと思って食堂に行き、(そうでなくても行ったのでしょうが)」のように無意味に説明的な文章を多用し、同時に、現実世界において正当と思われる秩序だった論理を敢えて無視した形で話を進めていく。そこでは過剰な言葉が費やされ、不確定的流動的な文章が綴られていく。
あるいは代表的なダダイスト、マルセル・デュシャンの作品に「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という作品がある。できれば写真でも載せたいのだが、ちょっとできないので申し訳ない。一言でいえばやはり「わけがわからない」。そしてやはりそのわけのわからなさがデュシャンの意図することなのである。細かく説明したいところなのだがどうやらちょっとつらい。とにかくデュシャンは、作品に付せられるあらゆる「意味」を拒否し、「何でもない」作品を作り上げた。
そしてその結果、「何でもない」作品の底に残ったものがなんだったのか。芸術の根底にあって芸術たらしめているものはなんだったのか。
それはただの「存在」そのものであり、無限の純粋なエネルギーの流動であった。
S・カルマ氏は名前をはじめ、自分に付随したあらゆる侠雑物を剥ぎ取られていく。そしてあらゆる流動を経て最後には無際限に成長していく壁となる。つまり存在の根底にある純粋なエネルギーに到達したのである。