永遠と一日
「永遠と一日」というアンゲロプロスという人の映画を見た。
さっそく映画の内容だが、死を間近に控えた一人の老人が、人生最後の一日を難民の浮浪少年と過ごすという設定になっている。老人と少年は現実と想像の世界を行き来する。老人は少年と共に数百年前の詩人と出会い、どこかの結婚式に立ち会い、死にゆく母と会い、死んだ妻と出会う。
老人は言う。「どこに行っても私はよそ者だ」老人は常に世界に対し違和感を感じている。誰と会っても、こいつとは何かが違う。どこへ行っても何か違和感がある。自分の居場所らしきものはこの世界に存在しない。老人だけでなく、ひょっとしたら誰でもそのことに気づいているんじゃなかろうか。むやみに普遍化するのはよくないので、こうしよう。俺はそのことを感じる。しかしそう感じない人でも少し考えてみて欲しい。本当に気が合うと思われる人でも、どこかやっぱり噛み合ってないところがあるんじゃないか。本当にここにいて落ち着くと思われるところでも実際少し自分とズレているようなところがありはしないか。
キルケゴールは絶対に神に至りえない、という絶望からの真の死ということを考えた。キリスト者は現実に「死ぬ」ということはありえない。魂は不滅だ。永遠に神に至りえないという絶望の中で、それでもなお生き続けなければならないという、真の絶望。
多くの人が、こういった考えならもったことがあるんじゃないかと思う。「自分なんか最初からいてもいなくても変わらないんじゃないか」世界に対する違和感、世界のどこにも自分をはめ込むことができないという感覚は、死以上の死ではないか。それは存在そのものの危機だ。自分は世界のどこにも存在しえない。しかしそれでもなお自分は確かに存在しており、存在し続けなければならないという無限の絶望。
世界に対する違和感。自分がいるべきだと信じていた場所に、
「そうではないのだ」と告げられる瞬間、なんら約束をしていたわけではないのに、世界に向かって「裏切り者!!」と罵る。死に至る絶望。死以上の死。
しかしそれでも消失しえない希望が同時にある。
ポール・オースターは言う。「事実と真実は別のものだ」
神を殺したニーチェが超人としての救いを用意する。「なぜ仮象に価値がないと言えるのか」
フロイトと、彼に続くシュール・レアリスムという芸術が、夢と無意識という、現実が汲み取りえない現実を救い出す。
そこにあるのは「錯誤」「錯覚」という真実。仮象は事実ではないかもしれない。夢の出来事は事実として起こった出来事ではないかもしれない。しかしそれは真実として存在し、真実として起こった出来事ではないのか。
そして、たとえ自分がどこへ行ってもよそ者だとしても、どこかで、本当にわずかな間でも、世界と自分がつながり、まちがいなく自分が世界の一部となるような錯覚を覚えることがあるんじゃないか。友達と大笑いして、違和感が壊れる瞬間。恋人と抱き合って、お互いが一つになっていると信じられる瞬間。きれいな海を見てそこに自分が溶け込んでいくような瞬間。「事実として」、他者と自分との違いが解消されているのではないのかもしれない。「事実として」一つになってはいないのかもしれない。「事実として」溶け合ってなどいないかもしれない。しかし「真実として」、その瞬間世界との和解が果たされているのではないか。それは永遠に対抗すべき一瞬となりうるのではないか。
「永遠と一日」の老人に、最後の一日の最後の瞬間、妻が生前に言っていた「私の日」が訪れる。老人は妻と共に「私の日」を迎える。死を目前にした老人の、死にゆく者のただの妄想に過ぎないのかもしれない。しかし、永遠に「よそ者」だった老人が、その一日だけ、まちがいなく「よそ者」でなくなった。