ビュッフェの死
先日ベルナール・ビュッフェという、フランスの世界的な画家が亡くなった。ビュッフェは、西洋の現代絵画界において、新造形主義や表現主義のような抽象画が大きく席巻する中、具象画の旗手として活躍した人だ。数年前にパーキンソン病を患い、絵筆をとることができなくなってしまっていた。そのことを苦にしてだろう(もちろん真相はわからないが)、ポリ袋をかぶって窒息死という壮絶な自殺を遂げた。絵の描けない画家の苦しみは想像するにたえない。
現代絵画においてはイマージュとオブジェの分離が急速になされていった。皮肉にも、自然界をより精確に写し取るために光学理論まで持ち出してきた印象派の絵画がその発端となった。印象派の、色彩の美しい、形態のあいまいな絵画は、ゴーギャンやマティスなど、世界をそのまま写し取らない絵画へと引き継がれていく。ゴーギャンは、世界が自分の目にどう映るかというよりも、自分が好きだと思う色をキャンパスに塗り込めろと言う。マティスは実際のモチーフの配置などよりも、色彩のバランスを考えた配色をする。そこに世界は写されていない。キャンパスに美しい色彩の混合があるだけだ。もちろん、オブジェとの接点がまったくないわけではないし、こういった絵画に価値がないと言う気はまったくない。俺は、ゴーギャンはとても好きだし、彼の絵には彼なりの世界解釈がある。ゴーギャンもマティスもとてもすばらしい絵画を残したと思っている。
そういった流れと別に、セザンヌのように世界を幾何学の形態で捉えようとする画家も出てくる。その流れはキュビズムや新造形主義に引き継がれていく。セザンヌやピカソやブラック、モンドリアンといった画家たちは、世界を純粋な幾何学的な形態へと還元していくことで、観念的、精神的な絵画を造形していこうとする。やはり、そこにあるイマージュとしての絵画はオブジェとの距離を次第に離していく。
抽象的な絵画が台頭してくる中で、次第に人々は、絵画を通して世界を見るということができなくなってきた。絵画が、そこにある世界を写し取っていないのだから、それは当然のことだ。ダダイズムやシュールレアリスム、アクション・ペインティング、ポップ・アート、果てはミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、ライト・アート、ランド・アートまで、芸術は果てしない広がりを見せてきた。それはそれとして、現代アートの大きな功績だろう。しかしそれと同時に具象絵画の意義が次第に忘れられ始めているのではないだろうか。おおげさに言うなら、現代芸術の大きな流れの中では具象絵画こそが異端ともなっているのではないか。
プラトンがミメーシス(模倣)としての芸術を程度の低いものとみなしたのに対し、アリストテレスは、そのミメーシスとしての芸術を偉大なものとして認めた。プラトンは芸術を、イデアの影である世界の、そのまた影を写し取る下らないものだと考え、アリストテレスは、芸術が世界の本質を抽出するものだと考えたのである。本当に優れた芸術は世界の本質を引き出す。本当に美しい具象絵画は、世界の本当に美しい部分を描き出す。そこに提示された美しい絵画を通して、鑑賞者は世界との和解をもはたしうるのではないか。
ビュッフェの絵画は黒と白を基調として、現代人の不安や悲劇性を描き出したといわれ、ミゼラビリズムと呼ばれた。その不安と悲劇性は具象絵画そのもののミザリーでもあったのではないのか。そんなことを想像しながらバルビゾン派の美しい風景画に思いを寄せる。
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